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エピソード103 トイレの女神様

♪トイレには~それはそれはキレイな女神様がいるんやで~

し、知らんかった~!おとうちゃんは知らんかったでぇ~!齢五十五になる今の今まで。
たとえ知らんかったとはいえ、わたくしことlefty-hiro、オシメがとれて五十有余年、
そないなベッピン女神様の面前で便器に腰掛け、尻を丸出し、
アラレもない品もないミもフタもない姿を散々晒し続けて参った次第で、
誠に畏れ多いことでございます。

私は今までトイレだけは自分に完全な”個”を与えてくれる場所だと信じて生きてきた。
だからこそ個室では常日頃の人前での緊張を解き放ち、精神を極限まで弛緩させた行動に耽った。
ジョンジョロリ~ンと排尿してきた。遠慮会釈なく排便してきた。好き放題放屁もしてきた。
のんべんだらりと鼻クソなんかもホジっちゃったかも知れない。
マヌケの極みである。決して誰にも見せたくない行状である。
小学校時代には保健委員への提出物を割りバシでつまんでマッチ箱に入れたこともある。
夢の精にいざなわれ濡らした下着を確認し「こ、これって病気かも」と案じた少年時代。
思春期には包皮をジッパーにはさまれ、気絶寸前、苦悶の七転八倒も演じたはずである。
そんなこんなの密室の悲喜劇を、それはそれはキレイな女神様はすべて目撃しておられたのだ。
女神様は覗き趣味をお持ちだったのだろうか。
♪トイレには~寺山修司とか田代まさしや植草教授もいるんやでぇ~

しかし私はショックである。トイレにまで神様がおわすくらいだから、
きっとこの世に真の”個”を確保してくれる場所はないのである。
己が完全なる”個”として確保されたいという願望はすなわち”自由”を求めるという
ことである。まあトイレを相手に自由化を叫ぶのもまたマヌケだし、
たとえ女神様がいなくとも、便器に跨るポケットで携帯電話が呼びかける昨今である。

ある春の宵、私と金森幸介はとある店でコーヒーを飲んでいた。
我々は最近のマス・メディアの無責任さ、いい加減さを嘆いていた。
テレビ番組ではコメンテーターの発言をそのまま局の公式見解のように扱い頓着もしない。
マスコミが不用意に発信する成句、複合語に世間はなにも疑問を抱かない。
我々はいい加減胡散臭いマスコミ発の成句、複合語をあげつらった。
こればっかりをシリーズにしてもよいくらい、出るわ。出るわ。
普段なにげなく使用しているものにも胡散臭い言葉は巧妙に身を潜めている。

この話題の発端になったのは私がなにげに発した言葉だった。
私がほんとになにげなく発した言葉に金森幸介の眼がジャガーの眼になったのである。
私は金森幸介に懇々と説教された。「アホのhiroよ!それはかなり胡散臭い言葉ぞよ」と。
この宵から何日か前にも、金森幸介は親しい友人と電話で会話をしていて
私の発した同じ言葉を聞き、その友人にも同じ説教をたれたそうである。
その友人は胡散臭さなどまったく無縁の人物である。
それどころか誠実かつ正義感溢れる人物である。
「アホのお前は言うに及ばず、そんな還暦の人格者にさえ、なにげに口にさせるところが
マスコミ発の成句、複合語の怖さや」と金森幸介は語った。だからそないに人をアホアホ言うな!
 
「孤独死」
広辞苑をひくと「看取る人もなく一人きりで死ぬこと」とある。
これは今世間で交わされ、理解されているニュアンスとかなり隔たりがある。
もっともっとネガティブなイメージで使用されているのではないだろうか。
「英語圏でもKodokushiで通じる」とWikipediaは言うが、ほんまだっか。KARAOKEやないねんから。

「○○さんは看取る人もなく一人きりで亡くなりました。死後一ヶ月経って発見されました。
最近こういう孤独死をされる方が増えました」と聞くと
一様に「不幸だ」「かわいそうだ」「さびしかっただろう」「辛かっただろう」
というぐあいに同情めいた反応を示す。
その感覚はいたって正常だし、そんなイマジネーションを浮かべるのが人情というものである。
でももっと深く想像力を働かせると「看取られる」「看取られない」の二項で○×を
判定できないんじゃないかという気にもなってくる。

他でもない金森幸介だって立派な孤独死予備軍である。
というか番号札を立てて、テキサスバーガーの出来上がりを待つにも似た
孤独死順番待ち状態だといっても過言ではない。かくいう私だって条件が重なればご同様である。
「シンガー・ソングライターの金森幸介さんが、自宅で遺体で発見されました。
死後三ヶ月は経過している模様で、生前、上人と自称していただけあり、
まんま即身仏状態でクリスピーに仕上がっていたそうです。さびしい孤独死でした」
という記事が目に浮かぶほどである。
しかし一人でいることに孤独を感じる人がいる一方で、そうでない人もきっといる。
自ら自由を求めた結果での「個人昇天」だったかも知れない。一概に孤独とは言い切れない。
このご時世にあえて携帯電話を所持しない金森幸介は、もしかすると
「ひとり上手」なのかも知れない。

孤独というならすべての死は孤独である。
今どき誰かが道連れに殉死してくれる人など僅少だろうし、そんなことして欲しくもない。
たいていの場合、反対語を想起すればその言葉の実態を把握できる。
孤独死の反対語ってなんだろう。集団死?連帯死?団欒死?よけい悲惨やおまへんか。
ほら胡散臭いやろと鼻の穴を膨らます金森幸介。「孤独」だって定義は難しい。
一人きりで死ぬのが孤独死なら、二人で死ぬのは心中で、家族で死ぬのは一家心中である。
孤独死の悲惨度ランクはかなり下のほうである。むしろ軽快なフットワークといってもいい。
レイ・ブラッドベリだって「死ぬときはひとりぼっち Death is a lonely business」
と言っている。

トイレにつかの間の孤独という名の自由を求める私ではありますが、
いざあの世に旅立つときには、やっぱり誰かに看取ってもらいたいと望むかも知れません。
男と生まれたからには、看取ってくれるひとの腹上で死ねるなんてステキかも知れませんね。
「トイレの神様」に出てくるおばあちゃんも、自分を裏切った(?)孫娘にもかかわらず
最後は看取ってもらいたいと願ったわけだし。しかしまあ、新喜劇を録画し忘れたくらいで
おばあちゃんを泣いて責めたりする孫娘はダメです。

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