エピソード111 オッサン・イン・ワンダーランド 後編

金森幸介は最近、引越しを決行したのであります。
昔風にいうならば宿替えであります。
今風にいうならリハウスであります。
しかし実情はそんな小洒落た生易しいものではなかったのであります。

生易しくないといっても、夜逃げなどという生臭いものでもない。
気の弱い金森幸介にはそんな勇気はない。
隣家の主婦からフトンを叩きながら「引越し!引越し!サッサと引越し!」と
ラップ調に嫌がらせを受けたわけでもない。
彼の長年の住処であった建物の所有者がかわり、取り壊されることになったことを理由に
新所有者から即刻立ち退きを言い渡されたのである。
足掛け三十年以上も住み続けた家である。
もちろん気の弱い金森幸介は家賃を一ヶ月たりとも滞納したことはない。
そんな優良店子である金森幸介にいきなりの仕打ちである。ヒドイ話である。
この世には神も仏もないものか。
はっきり言います。神のご加護も仏の慈悲もこの世にはありまへん。多分。

金森幸介は抵抗した。他の住民が皆立ち退いていった中、彼一人が立てこもりを続けた。
人権派支援NPO団体「独居老人フォーク歌手の住環境を守る会」が大きなお世話にも組織され、
歴史上に三里塚闘争と肩を並べる紛争騒ぎへと突入してしった。
しかしある日遂に強制執行が通告され、敷地内にブルドーザーとユンボが入った。
現場監督の冷酷な笛の合図で哀れ金森幸介は家もろとも鋼鉄のブレードの藻屑と消えたのであった。
...はまったくのウソで、争いを好まぬ金森幸介はあっさりと新大家の言うことを聞き、
明け渡しに応じたのである。立退き料の要求さえしなかったのである。

ひとえに新大家のおばちゃんの印象が悪くなかったからである。
このおばちゃん、結構なやり手の不動産業経営者なのであった。
今までのように低家賃の所は難しいかも知れないけれど、
自分の会社の物件から条件に叶うのを見繕ってくれるという。
早くに夫を亡くしたおばちゃんである。
女手一つで荒くれ者の揃った不動産業界を乗り切ってきたのである。
遅咲きの色香もほんのり漂っていたりもしないでもないかも知れない。
下着は黒をはいているかも知れない。でもSoul Mate どんなときでもSoul Mate
「あんたがその気で私の相手してくれたらお手当ても考えてもええねんでぇ...」
と熱い視線を金森幸介の下半身に落とすおばちゃんであった。
...というのも映画「未亡人下宿」からの引用で、
実際にはおばあちゃんと呼んだ方が正確なシルバーな女性である。
おばちゃんは早速金森幸介を社用車にのせ、近くの物件案内に巡ってくれた。

「まあ、一番希望家賃に見合うとこ」と連れて行かれた一件目は
立て付けの悪い木製ドアをあけると薄暗く長い廊下が続き、その両側に薄っぺらい戸が並び、
トイレ洗面共同という古式ゆかしき「どくだみ荘」形式にのっとったアパートであった。
絶句した金森幸介が「さ、さすがに此処は...」と尻込むと
「なんや、意外と贅沢やな。あんた」と悪態はついたものの、二件目に案内してくれた。
今度はちゃんとした四階建てのマンションである。
金森幸介は安堵した。多少予算はオーバーするし、少し床面積も狭い気もするが
「どくだみ荘」を目の当たりにしてきた直後だけに、すごく良い物件に思えた。
金森幸介は「ここにします」と即決の意思をおばちゃんに伝えた。
「そうか、そうか、それがええわ。ここやったらバッチリや。あんた運がええで。
たまたま空室があったんやでえ」と新大家のおばちゃんは恩に着せるように言った。
気のいい金森幸介は今でもこのおばちゃんに感謝しているようである。
しかし私は思う。最初に質の落ちる物件に案内して本命の第二物件に良い印象が抱かせるのは
不動産屋の常套手段やないの?と。
でもまあ、その後おばちゃんはテーブルや洗濯機をくれたりととても親身になってくれたので
金森幸介としては、結果オーライだったのだと思う。

引越しのスッタモンダについてはまた別の機会に語ることとしよう。
無事引越した金森幸介だったが、やはり新居は少々狭かった。収納が少ない。
というか、以前の住居が思いの外、広さがあったのだろう。
かなりの荷物を廃棄したが、それでも入りきらない。
先祖代々をお祀りする仏壇をどうにも持て余し、能勢の山奥で燃やすといった事も
あったかも知れないが、それはまた次の機会に譲ろうではないか。
とにかく床面積が少ない分は高さで埋めるしかないと三次元的発想に転換した金森幸介は
背の高いCD棚と本棚をIKEAで購入することにしたのである。
誰かに「IKEAにいけや」と言われたのかどうかは知らないが、
基本的に「客が持ち帰り、客が組み立てる」ことで低価格を実現しているIKEAなので
貨物車を所有している私に白羽の矢がたち、前編のお話に至るのである。

これでやっとなぜ金森幸介と私がIKEAで待ち合わせをしたかの説明が終わりました。ふう。

IKEA鶴浜のエントランスで合流した我々は1Fのダイナーのような場所で
まずはコーヒーを飲むことにした。
70円で紙コップを購入するとセルフサービスだが何杯でも飲めるらしい。
ふと傍らのダストボックスを見ると、使用済みの紙コップがたくさん棄てられている。
「これをひとつ拾って洗って使ったらタダで飲み放題やな...」と密かに思ったけれど、
70円をケチろうとするような奴はIKEAにはそもそも来てはいけないのである。

我々の主目的は金森幸介の新居の家具を購入することである。
家具のショールームは2Fである。エスカレーターで昇る我々。
お昼を過ぎ、更にお客が増えてきた。特に女性客が目立つ。ほぼ70%が女性である。
もちろん男性客もいるが、ほとんどがカップルか家族連れである。
その少数の男性客のほとんどが20代30代の若者である。
年配の男性もごく僅かだがいるにはいる。
でも皆、見るからに裕福そうなナイス・ミドル&シルバーである。
裕福でなさそうな年配の男性は...ほぼ見当たらない。
つまり、残されたマイノリティ・カテゴリーに属するのは我々だけである。
しかも男二人連れである。よく言えば「場違い」ヘタをすればヘンタイ扱いである。
しかし、周りの買い物客はハッピー裡のショッピングに夢中で我々を気にする様子もない。
やはりカップル比率は高い。婚約中で新婚家庭の家具を選んでいるらしい二人も多い。
手を繋いで今まさに人生の至福の瞬間!という幸福オーラを撒き散らしている。
傍の我々も幸せのお裾分けを頂いたようで、思わずハートウォーミングしてしまう。
心で祝福した。「お二人が永遠に添い遂げられますように。無理やろけど」

エンゲージ・カップルらしき二人が仲睦まじくベッドを選んでいた。
私と金森幸介の胸に同じ妄想が浮かんだであろうが、ふたりとも口にはしなかった。

結局金森幸介はCD棚と本棚、小ぶりのチェストとテレビ台を購入した。
選んだ商品を1Fの倉庫からお客自らがレジに運んで精算し、持ち帰るシステムである。
本棚の梱包は横60cm縦2m超というけっこうかさ張るものだった。
まるで昔のロング・ボードのようだ。
我々は二人でその長いパッキンケースを小脇に抱えてカートにのせようとした。
ふと横のウィンドーに映る自分達の姿を見て、我々は同時に呟いた。
「ビーチボーイズか...」

私の車は一応貨物車ではあるがそれほど大型ではない。
さすがに2mを超える超尺物は持て余し、助手席を倒して、やっとこさ積み込んだ。
金森幸介の新居へ向かう途中、金森幸介が後席で力説した。
「お前みたいな奴が住んでた大正もIKEAが出来てえらいハッピーなイメージになったがな」

スモッグの下の工業地帯に突然白夜の国からやってきた清潔感漂う「美しき消費の殿堂」
確かに「掃き溜めに鶴」ってやつかも知れない。地名も鶴浜だし。
でもね、でも此処は此処で美しかったんだよ。
煙や水蒸気を吹き上げる煙突が立ち並ぶCo2大量生産の極悪な風景が
それはそれで美しかったんだよ。
確かにそこらの運河にはヘマをしでかした組関係者のコンクリート詰めがいくつも
沈んでるだろう。でもね、その水面に映るキューポラの火はキレイだったんだよ。
と十歳の私が耳元で囁いた。そうそんな光景こそが懐かしい私のふるさとの風景なのだ。
「あんたの育った此花区とU.S.J.も同じようなもんでんがな」
と私は金森幸介に応酬し、二人で笑った。

IKEAの家具はけっこう安易に組み立てられ、金森幸介の新居の収納に大いに役立ったらしい。

私がその後帰宅し、購入した品物を取り出してみると、グラスは一つヒビ割れ、
板チョコは車内の熱でドロドロに溶けていた。
大正育ちの私はやはり白夜の国とはソリが合わないようである。