エピソード117 未知の惑星イトカワへ 中編
「ここはどこ?私は誰?」
長堀駐車場の地下二階から車を出して長堀通りを東へ向かう。
松屋町筋は確か南行きの一方通行だったはずだから、
北へ行くには堺筋か谷町筋を選ばなくてはなるまい。
堺筋は基本的に渋滞が多いから、谷町筋を北上しようと決めた。
「時をかける少女」の原田知世ちゃん状態から、幾分以前の都会生活での土地勘を取り戻し、
私は一路、谷町筋を北へと走った。天神祭りでは船渡御で賑わう大川を渡る。
天満橋だ。大阪はさすが「八百八橋」と謳われるほどの水都である。橋が多い。
長堀川を例に出すまでもなく、今は埋め立てられた川も多いので、
江戸の頃にはきっともっと沢山の橋があったんだろうな。
暮れなずむ中之島を左手に見やりながら天満橋を渡る。
「♪天満橋からお人形投げた~」なんて歌を思い出して、ちょっと口ずさんだ。
背負った子どもに、そして世間に翻弄される子守娘が歌う悲しい子守唄だ。
確か吉永小百合さんが歌ってたなあ。
なんとなくその子守唄が今の自分に同化しているような気がした。
夕暮れの橋と夕陽を落とす川面の情景はやはり美しい。
金森幸介の亡きご尊父も橋梁を建築する仕事に就いておられたと聞く。
糸川燿史さんの撮影による金森幸介と十三大橋の写真を思い出した。
そう私が本日、幾年もの禁を破って、恐る恐るこの都会に出てきた第一の目的は、
糸川燿史さんの「映像×写真LIVE」を観ることであったのである。
金森幸介とM姐さんも決して桜ノ宮密会ニャンニャンペアなどではなく、
私と同様の文化的かつ学究的な目的を携えた、エロスレスのお二人だったのである。
だからM姐さんにはエロ・フェロモンは不要なのである。バスッ!(M姐さんに刺された音)
天満橋北詰の交差点を左折、大川沿いに行けば左手に天神橋が見えてくる。
南行き一方通行だった松屋町筋(大阪人は「まっちゃまちすじ」と発音する)も
天神橋を渡ると双方通行の「天神橋筋」にその名を変える。
私は天神橋筋に面した無人駐車場に車を駐め、再びM姐さんに電話をかけた。
「天神橋筋商店街のI珈琲店で待ってるわ」
アーケードは仕事帰りの人々で賑わっていた。なかなか昭和の匂いの漂う商店街である。
I珈琲店はすぐに見つかった。こざっぱりした印象が好ましい喫茶店である。
店内に入ると入り口脇のテーブルに金森幸介とM姐さんが向かい合わせに座っていた。
私がM姐さんの隣に座ると、向いに座る金森幸介が「ここのコーヒー、ほんまに日本一やで」と
意気込んでいる。かなり真剣な表情である。
女給さんが私の前に水のグラスを置き、オーダーを訊く。
「じゃ、ブレンドコーヒーをお願いします」と私は応える。
「濃いめと普通、どちらにされます?」と女給さんが言うやいなや、
金森幸介が「濃いめ!」と私の存在を無視して即答する。
「なんの権利があってあんたが俺の嗜好を決めんの?」とツッコむすきも与えぬ勢いに
「・・・はい。濃いめで・・・」と素直に従う私であった。
運ばれてきたコーヒーからは、一瞬で「デキる!」と思わせる芳醇なアロマが香りたっていた。
一口つけてみると、キリリとした苦味と微かな酸味。私の好みのブレンドである。
見ればさほど広いとは言えない店内に焙煎専用室を備えている。きっちりとした仕事をしている。
日本一かどうかは別として、確かにとびきりうまいコーヒーであると断言できる。
恐ろしき都会の変貌ぶりになんだか言い知れぬ不安を感じたりした半日だったけれど、
この一杯のコーヒーが払拭してくれたような気がする。ああナゴむ。
最近、こういう職人仕事が出来るコーヒー屋さんが少なくなっているとも感じる。
バリスタかなんか知らないが、熊ちゃんの絵なんか描かれちゃっても困るのである。
一杯のコーヒーから夢の花咲いたあと、我々三人は店を出て天神橋商店街をそぞろ歩いた。
同じく商店街である心斎橋筋はもはやクリスマス・ムードに染まっていた。
しかしここ天神橋にはクリスマスのクの字も見当たらない。クールである。
もとより天神さんのお膝元である。異教の祭りなんぞにたぶらかされてたまるかいっ!
という気骨もあるのかも知れない。我々はアーケードを逸れ、夕間暮れの天満宮に参拝した。
人の気配もない拝殿の床に玉子の六個パックがひっそりと置かれている。シュールである。
裏門を抜けると上方でも希少になった常設寄席小屋である「天満 天神 繁昌亭」の提灯に
火が灯ったところであった。初めて目の当たりにした繁昌亭はなかなか情緒のある小屋だった。
浦島太郎の都会リハビリも順調である。本日の最大目的である糸川さんのLIVEの時間も迫ってきた。
LIVEの会場である「音太小屋(ネタゴヤ)」に向かおうではないか。
しかし繁昌亭の提灯の灯りに半面照らされた金森幸介の表情が一瞬翳った。そして言った。
「hiro・・・今から言うとくけどな・・・音太小屋な・・かな~りキョーレツなとこや。
お前が半日かけた都会リハビリも元の木阿弥になるかも知れん。いや、
大和川の向こうに生息してるお前らみたいな無免疫人種には命の保障もしかねる。
それでも行くか・・・?」
おいおい、音太小屋・・・どんなとこやねん。
それに俺はブッシュマンか。
風雲急を告げつつ、次回完結編を待て!