エピソード39 ギムレットには早過ぎる

金森幸介がめでたく50何度目かのバースデイを迎えた数日後、
我々はまたまた深夜の彷徨い人になっていた。
遅い桜の開花宣言が各地から報告され始めていた頃である。
幼い頃から彼は自分のバースデイシーズンといえば
”桜満開”のイメージがあるらしい。
そう、咲き誇る桜の花に祝福されて生誕したチェリーボーイだったのである。
チチチチチチチチ、チェリーボーイ!なのである。
倣っていえば栗の花咲く夏に生まれたこの私はさしずめ
マロンブロッサムボーイとでも呼んでもらいましょうか。
くれぐれも”栗の花の匂いの男”とは呼ばないでね。
怪僧ラスプーチンやないねんから。

今回金森幸介と会うにあたって私は遅まきながら
ささやかなバースデイプレゼントを用意していた。

日付はすでに変わっていたが、我々は最近しげく通う店にいて
90%のけしからぬ話と10%のそうでもない話を交わしていた。
二杯目のコーヒーを飲み干すタイミングで私は
「幸介、”ロング・グッドバイ”買った?」と訊ねた。
「手に入れたよ。まだ読んではいないけど」
40頁超に及ぶ訳者あとがきから読み初めているということだった。

レイモンド・チャンドラーの"The Long Goodbye"は金森幸介の愛読書だ。
邦題は”長いお別れ”
わが国ではこれまで清水俊二翻訳で読まれてきたこのミステリの名作が
この春、半世紀ぶりに村上春樹の翻訳で再出版された。
日米名文家のコラボレーションだ。
早川書房刊”ロング・グッドバイ”である。

三杯目のコーヒーを少し寝ぼけ始めた胃に流し込み我々は店を出た。
小さな包みはその夜、私の車のグローブボックスから出されることなく
明け方に我々は別れた。

白み始めたハイウェイをゆっくりと自宅へと向かった。
眼下の道路脇には、満開にはほど遠くも
佇む桜の樹が早朝の風に瑞々しく揺れていた。

帰宅後、持ち帰った簡素なラッピングを開封しチップ・キッドの手による
ポップでクールなハードカバーを開いた。
攻め寄せる睡魔にサーバー満杯のコーヒーで応戦しつつも
その夜までに読み終えた。
ミステリでありながらこの先何度も読み返すであろう予感がした。
少なくとも私はこれで満足だ。
Happy Birthday幸介

「ギムレットにはまだ早過ぎるね」は”長いお別れ”で準主役が口にする
米国ミステリ史上特別に有名な台詞である。
いわゆる純文学まで枠を広げてもこれほど知られた台詞は少ないだろう。
アルコールを飲まない我々ではあるが、物語に登場する女好きのアル中たちの
一貫した美意識を伴った様式や死守しようとする徳義はよく理解できる。
我々の場合「ハニーディップでは甘過ぎる」程度のハードボイルドだけど。