エピソード40 SMILE
「ロング・グッドバイ」を手にしてからというもの、
私にはちょっとしたマイ・読書ブームが訪れております。
自分の内なるなにかが活字を求めているのです。活字ジャンキーであります。
上質の文体で綴られた読み物でありさえすれば
テーマやストーリーにはあまりこだわらないのであります。
金森幸介に言わせれば、チャンドラー物の楽しみ方は、
その達者な文体に身を委ねることであるらしい。
時々ランダムに頁を開いて、主人公フィリップ・マーロウ一流の
メタファーやアイロニー、レトリックにウンウンと頷くことであるらしい。
なんのこっちゃよく分かりません。
私は古本屋を巡って、やはりチャンドラーの「さらば愛しき女よ」や
「長いお別れ」の清水俊二翻訳版なんかを手に入れた。
それでも飽き足らず、昔読んだものも読み返そうと、数年前に引っ越してから
そのままにしていた屋根裏のダンボール箱を開封して漁った。
無造作に詰め込まれた中から紀伊国屋の文庫カバーがかけられた
一冊を取り出した。
私には紀伊国屋書店で文庫を買った記憶がない。
誰かから借りたか、譲り受けたものであることは間違いない。
扉頁を開くとルイス・シャイナー著「グリンプス」だった。
思い出した。もう何年も前に金森幸介が貸してくれたものだった。
奥付を見ると1997年。もはや十年が過ぎていた。
何故か私は一頁も読まないまま引越し荷物に放り込んでいたのである。
無礼な話である。
にわか活字ジャンキーの私は渡りに船とばかりに早速読ませていただいた。
色んな感慨が沸いた。
中年というにはまだ若い主人公レイ。平凡なオーディオ修理屋の彼が
ある日自分の特異な体質に気づくところから物語は始まる。
彼はその体質、いや超能力を駆使し60年代へタイムスリップして
発表されずに終わった何枚かの幻のレコードを完成させようとする。
完遂すればロックの歴史は変わるだろう。
いや、世界の歴史さえ変わるかも知れない。そしてレイの人生も...
まさに奇跡を起こそうとするのである。
ビートルズ、ドアーズ、ジミ・ヘンドリックス...
タイムスリップしたレイはビーチボーイズのブライアン・ウィルソンの自宅を訪ねる。
ブライアンは今まさにアルバム"SMILE"を制作中である。
だが、バンド内のゴタゴタやレコード会社からの横槍で、
天才の革命的傑作の運命はもはや風前の灯だった。
(どうやらシャイナーも”マイク・ラヴ嫌い”の一人のようである。)
ドラッグに依存し、ブライアンのモチベーションは失われつつあった。
しかしレイの尽力によりブライアンは"SMILE"をみごと完成させる。
奇跡は起こったのだ。
でもそれは一人のロック好きの作家が描いた
SFファンタジーストーリーの中での絵空事に過ぎなかった。
そして2007年。
世紀を跨いだ深夜の珈琲店で私は金森幸介に文庫本を返した。
金森幸介の手を離れ、私の自宅の屋根裏で眠っていた十年間、
閉ざされた頁の中で物語はその意味を変えていた。
いや劇的に熟成されたといっていい。
2004年、ブライアン本人によって"SMILE"は新しく録音され、発表されたのだ。
しかも愛すべき音楽人間ブライアン・ウィルソンは元気に今を生きている。
誰にこんな現実が想像できただろう。まさに奇跡である。
ここでもテーマやストーリー、出来不出来はあまり問題じゃない。
奇跡はマイク・ラヴを除く世界中から微笑みと喝采を持って迎えられた。
十年ぶりに帰ってきた文庫本を手に金森幸介がしみじみと言った。
「奇跡は起こるってことやなあ...」
そう、奇跡は起こる。
だからこの世界に生きているのもまんざらでもないと思えるのだ。