エピソード78 こころは棄てられたか

小雨そぼ降る街角、何冊かの本が無造作に束ねられて道端に棄てられている。
雨つぶに濡れている茶色の背表紙は夏目漱石の「こころ」である。
そしてその下にはドストエフスキーの「罪と罰」も見える。
同じ雨に濡れた一匹の三毛猫が静かに棄てられた名作本たちを眺めていたが、
静寂を切り裂くように傍の踏み切りを通り過ぎる電車の音に走り去る。
雨音のリズムに同期したような落ち着いたトーンで男性のナレーションが入る。
「今日、誰かのこころが棄てられていた。心を棄てるなんてなんだか寂しくないですか」

最近放映されていた古書店チェーンのテレビCMであります。
社長は”あねねのね”であります。

CMの主旨は物理的「こころ」と心理的「心」との明喩を用いて
「棄てるぐらいだったら、うちで買取りさせてもらいます」と言いたいのである。
「それから利ざやを付けて再販して儲けさせてもらいます」とも小声で言いたいのである。
もちろんたいていのCMは「儲けさせてもらいます」のためにあるのでなにも問題はない。
このCMを見た視聴者は「そうね、若い頃読んで感動した本だし、そう言われれば
私の青春時代の心みたいなもんだわ。棄てるんだったら買い取ってもらおうかしら。
リサイクルってエコだし、青春の思い出を誰かにバトンタッチできたらステキだし...」
という訳で椎名桜子とかの本を店に持参し、何十円かを受け取って帰るのだ。
心を買い取って売るってのも心を棄てる以上に寂しい気がするのだけれど。

でも本はあくまで本であって、心など決して宿してはいないと私は思うのである。
初恋の人からプレゼントされた四つ葉のクローバーのドライリーフ入りなんてのは別にして、
著者が描いた心の綾は読まれた時点で読者の内なる場所にそっと仕舞われて然るべきなのだ。
趣味のいい装丁の美しい本だったりすると手放したくなくなったりもするけど、
さりとて単なる印刷物であることに変わりはない。ただ美しい印刷物であるだけである。

ここで私の中での積年の疑念である「ハードウェアとソフトウェア」という問題が首をもたげる。
この場合、本がハードで、書かれている内容がソフトということになるのだろうか。
ちょっと違う気もするのである。
人間の身体がハードで、精神はソフトなのだろうか。これまたちょっと違うような...
話はどこまでも脱線するが、以前観た「A.I.」という米映画でオスメント君演じる
ロボットの少年に人間の少年が「僕はオーガニックでお前はメカニック!」なんて言って
イジメていたが、オーガニックってそんなにエライの?そいじゃケミカルの立場は?
オーガニックのハードウェアにもメカニックのハードウェアにもそれぞれ
それらを司るソフトウェアが内包されていて、それは頭脳なのか精神なのかプログラムなのか...
ええいっ!もぉ脳みそバ~ン!

金森幸介は自宅で腕を組みながら唸っていた。「ウ~ム...」
目の前にはうず高く積まれた物体が。
その大量の物体の正体はビデオテープとカセットテープである。

我々は昭和の御世に既に三十代、二十世紀後期に既に四十代だった世代だ。
カセットテープが登場して我々の音楽環境を一転させたのが十代後半。
ビデオデッキの民生機が普及し始めたのは二十代前半だった。
ビデオテープにはお世話になりっぱなしであった。新興のDVDなどの比ではない。
カセットテープに至っては過剰な愛情すら抱いている。CD-R、MDなど足元にも及ばない。
我々の音楽人生へのカセットテープの貢献ぶりにはただただ感謝するばかりだ。
人生の後半に突然出現したデジタル軍勢におっかなびっくり対応しつつ、
アナログ勢との付き合いも我々は断ち切れずにいたのである。
たとえデジタルでも、DATみたいに実際にテープが走行してるシステムには心が和んだ。
しかし遂に最近はビデオもカセットもほとんど観なくなった。聴かなくなった。
カセットに至ってはまともに再生できるシステムもない状況だ。
ということになると、目の前の数百本にも及ぶテープに利用価値はないのである。
言うならばゴミである。物を持たない主義の金森幸介は考えた。出来るなら廃棄してしまいたい。

ビデオレコーダー導入期には洗濯屋ケンちゃんの甘美な誘惑に負けず
ベータ方式を選択した金森幸介である。、懐かしいベータテープも残っている。
懐かしいが、無論ゴミである。ベータビデオデッキなど遠の昔にお払い箱になっている。
しかし、ビデオテープやカセットテープには知人がダビングしてくれたものが多い。
物理的には完全にゴミであっても、唯心的にはそうとは言い切れないものも含んでいる。
当時の知人の真心とか友情とか親切心とか、おせっかいとか怨念とか...
色んなものがそこには封じ込められているような気もする。
棄てるべきか、棄てざるべきか、それが問題だ。ハムレットの如く彼は悩んだ。
三日三晩悩んで悩みぬいたあげく、彼はテープをすべて廃棄することに決めた。
迷いはない。カセットテープの中の演奏もビデオテープの中の映像もすべて
金森幸介の脳細胞の中で微弱だが芳醇なアンビエントとして永遠に存在するのである。
棄てるのはゴミであって、心ではない。と自分にしっかり言い聞かせた。
姿かたちは滅びるとも魂は不滅である。「千の風になって」論理である。かな?

廃棄すると決心したが、ハンパな量ではない。不燃ゴミの日に一気に出すのは気が引ける。
ご近所に怪しまれたくないし、なんといってもかっこ悪い。
テープ類大量保有男に今だ世間の風は冷たい。テープの内容に関係なく、ただひたすら冷たい。
それでなくても毎日昼日中からブラブラしてるひとり暮らしのアラカンである。
何百本ものテープを棄てる姿を誰かに見られたりしたら、もはや絶体絶命、
完全なるヘンタイおじさんとして、この界隈では暮らせない事態に陥ってしまうだろう。

そこで一計を案じた彼は何度かに小分けして棄てることにした。
五回くらいに分ければ大丈夫だろう。しかし市役所の環境衛生課に問い合わせてみると、
不燃物の回収は二ヵ月に一度だというではないか。
これでは構想三日完遂一年の一大事業になってしまう。
「金森は迷った...なんとかしなくては...何日も迷った」 田口トモロヲの語りが聞こえた。
しかしテープ棄てるくらいでいちいちプロジェクトXしてるほどヒマではないのである。
そんな金森幸介に数日後、朗報が伝わった。テープ類は燃えるゴミ扱いだというのである。
可燃ゴミの回収なら毎週二度である。それだと五回に分けても半月で終わる計算になる。
一挙解決である。バンザ~イ!バンザ~イ!バンザ~イ!

その後金森幸介は一週間に二度、早朝の闇に忍びゴミ収集に指定された場所にテープを運んだ。
五回に分けても一回に出す量はけっこうなものになった。
そして半月後、彼はすべての所有テープを自宅から消し去ることに見事成功した。
心を棄てたなどとは小指の先ほども思わなかった。
それどころか、身の回りを整理できたことでなんとも身軽になった気がした。
身辺整理という言葉がなんとなくフィットするような気もした。

ここまで書き終えてタバコをくわえ、テレビの電源をONにすると
ワイドショー画面に「三重県の市役所職員が284冊のエロ本を田んぼに不法投棄で逮捕」
というテロップが流れていた。とたんに身を乗り出して画面に集中する私。
「アダルトビデオ53本にCD-R25枚も同時に棄てられていたそうです」と女子アナウンサーが
まるで梅雨時に生ゴミ箱を覗いたようなしかめっ面で
「市役所の職員という立場にありながら、もう人間としてクズですね」と締めくくった。

私は複雑な気分になった。この男は取調べに対して
「アダルト雑誌などをまとめて処理するとかっこ悪いと思った」と供述している。
ちなみに金森幸介が棄てたビデオはアダルト系ではない。と本人は言い張っている。
しかし結果として大量のソフトを破棄したという点では完全に共通しているのである。
どちらも切羽つまっていたのだ。
金森幸介は合法範疇で小分けという正攻法を選び、三重県の男は違法で一挙という暴挙に出た。
棄てられたエロ本やアダルトビデオはすべて合法なものだったそうである。
だから罪状としてはただの不法投棄なのである。棄てた物がエロ関係でなかったら、
テレビ報道までされ、女子アナにクズ呼ばわれされることもなかっただろう。
彼には「心」ならぬ永年の夜の友を泣く泣く棄てなければならぬ理由があったはずなのだ。
私は哀しい。世間はエロ関係に対してキビし過ぎる。ただのプライベートな趣味嗜好でさえ
痴漢やセクハラ、レイプなどと同じ次元で眉をひそめる。
男性の身体というハードウェアはひとつだが、上半身と下半身には個々のOSが
インストールされているのだ。上半身のそれにはソフトウェアの入れ換えが可能だが
下半身はリビドーというオペレーションシステム単独で支配されており、
小難しいアプリの介入を許さないのである。ということを世の女性方にはご理解いただきたい。
「今日、誰かのエロ本が棄てられていた。エロ本を棄てるなんてなんだか寂しくないですか」
おっしゃる通り確かに寂しい。寂し過ぎる。
だからといってブックオフがエロ本やアダルトビデオを買い取ってくれるかというと、
多分そうではない。

私の自宅の屋根裏にも現在、ダンボール箱10個超のテープ類が眠っている。
地震が発生したりなどしたら、重みで天井が落ちてこないか心配である。
いくら寝食を共にしたアナログ・テープたちとはいえ、心中はしたくない。
金森幸介からは「悪いこと言わへんから、思い切って棄てろって」
と忠告されているが、なかなか踏み切れない私である。
しかし金森センセイ、私も必ずや貴方の道を行きます。
我々の歳になると脳も不要な記憶をどんどん破棄する。かなり必要な記憶も棄てる傾向もあるけど
これにもきっと意味はあるのだ。「一時ファイルを削除」みたいな感じで。
シンプルに生きるために、心も身体も身軽になるために、今「棄てる」は美徳なのかも知れない。