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エピソード85 若気の至り 夏 前編

なぜか夏が来れば思い出すのです。
遥かな尾瀬、遠い空...じゃなくて、恥ずかしくてもどかしくてやるせなかったあの頃。
愚かな失敗や脱線や失望の毎日...
我が青春の夏の日の思い出には若気の至りしか見当たらないのです。
今回は金森幸介ではなく、わたくしlefty-hiroのinside-reportでお耳汚しさせて頂きます。

高校2年の夏に同級生と4人組のバンドを結成した。
ヤマハ主催の「ライトミュージック・コンテスト」に急遽つくったバンドで参加したのだ。
後の"8・8ROCKDAY"の前身となったイベントである。
そのときの僕達はグランド・ファンク・レイルロードの”ハートブレイカー”かなんかを
演奏したように思う。でもあの夏の日の記憶はてんで定かではないのである。
自己防衛本能が僕の脳みそから記憶を消そうとしているに違いない。
だってあのとき自分がどんな楽器を担当していたかさえも記憶にないのだから。

僕らは夏休みを徹して万全の構えで練習したつもりだったけれど、
今思えば相当にチャランポランだったと思う。
会場は千里中央パンジョの野外広場だったと記憶しているが、これも定かではない。ただ、
大阪万博の狂想曲の残響がまだ漂っていた時期の千里地区だったことは事実である。

何組ものアマチュアバンドの演奏が続き、さてあとひと組で僕たちの出番である。
そのあと一組のバンドがステージに姿を表した瞬間、僕たちは震撼した。
総勢10人以上、数人のブラスセクションを擁する彼らは”オールラウンズ”と名乗った。
ブラッド・スエット・アンド・ティアーズの「ハイデー・ホー」と
マッドドッグス&イングリッシュメンの「あの子のレター」だったと思うけど、
なんせすごい音圧で演奏した。
中でも、長髪にヒゲを蓄えた痩身のボーカリストが見せるジョー・コッカーばりの
アクションの派手さったら...!
僕たちはただ楽器を抱きしめてポカンと彼らを見上げるだけだった。

会場を揺るがす彼らの演奏が終わり、熱気が一気に蒸発したステージに
僕たち高校2年生4人組がポツネンと立ち、ボソボソと演奏した。
この場所から消えて無くなりたいとはあのような状況を言うのだろう。
ステージの上からは客席の人々がボンヤリとした陽炎や逃げ水のように見えた。
番町皿屋敷のお菊さんみたいに消え入るような声で「♪ハートブレイカ~」とか歌いながら
その瞬間世界で一番ハートブレイクしていたのは確実に僕達だった。
頭の中で主催者の悪意を恨んだ。「この出番順はないやろ...」
これぞミジメ ミジメの中のミジメ ザ・ミジメ...
なんせ僕達が高校で所属していたのは「フォークソング同好会」だったのである。
「焦げよマイケル」じゃなくて「漕げよマイケル」かなんか歌っときゃよかったのである。
判定結果も聞かず、我々はソソクサと地下鉄で家へ帰った。
その後僕達の中から自殺者が一人も出なかったのは奇跡というしかない。

"オールラウンズ"のギタリストが石田長生でボーカリストが上田正樹だったことを知ったのは
かなり後になってからであった。

でも今ツラツラ考えるに、"オールラウンズ"にはYAMAHAの関係者なんかも
参加していたってことは、けっこうデキレースだったんじゃないのかな。
けれどどうあがいても私の若気の至りのミジメなメモリーは生涯消えることはない。
しかしあの時一緒のバンドで若気の至りを経験したO君は今、YAMAHAから給料を奪っている。
ある意味、意趣返しをしてくれたと言えないこともない。

「焦げよマイケル」なんて茶化してしまったけれど、フォークソング同好会の演奏会で
全員で「漕げよマイケル」をシングアウトすることになったとき、
僕ひとりが拒否したことを思い出したのである。
当時「黒人霊歌」などと呼ばれていたこの曲を僕らボンクラ高校生が気軽に歌うことが
どうしてもためらわれたのである。
黒人奴隷の少年マイケルはヨルダン川を小舟で渡ろうとしている。
向こう岸は約束の地ナン。辿り着けばお母さんに逢える。そして苦しい日々から開放される。
漕げよマイケル 漕げよマイケル ヨルダン川は深くて広い ママに逢いにいこう
漕げよマイケル 漕げよマイケル ヨルダン川はとっても冷たい でもママに逢いにいこう

今考えてもやっぱりみんなで楽しげに歌える歌ではない。
けれど同好会全員を敵に回した当時の僕はやっぱり若気の至りだったのかも知れない。

天に召された白いマイケルはもうヨルダン川を渡りきっただろうか。ハレルヤ

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