エピソード99 文学 音楽 爲人(人となり)
年末年始に亘って図書館から借り出した十冊の中に、
スコット・フィッツジェラルドの「冬の夢」もありました。
以前からバラバラに翻訳版が出ていた短編集ですが、今回は村上春樹訳ということもあり、
昨年末に発刊されたばかりですし、図書館開架に発見できたのはとてもラッキーだと思います。
というか私が始めての借り出し者のようであります。
「1Q84」は未だに何人も予約待ちだというのに、翻訳もんは春樹はんも人気おまへんのか?
この「冬の夢」本屋で見かけたのとは、なんだかカバーデザインが違う気がしたのですが、
なんのことはなくて、本来函入りだったのです。外函と本体とは違ったデザインが為されていて
図書館では外函は外して棚に収められますので、違和感を覚えたわけです。
でも私としては函は取り外したほうがいいと思います。
表紙絵も裏表紙絵も使ってるフォントも本体単体の方が雰囲気ですし、価格表示もないし。
裏表紙なんてかわいいテディベアだし。
装幀を担当された和田誠さんも、取り外すのを前提にあえて函入りにされたのではないでしょうか。
価格表示やバーコードなどの「商品」の部分を函に担わせてしまうという巧妙なカラクリ。
ああそれなのに、我が南河内の図書館はバーコード付き備品シールを表紙のしかも絵の部分に
なんのためらいもなくベッタリ貼り付けているではありませんか!ほんま無粋の極みであります。
そんな怒るくらいやったら自分で買え!という声が今聞こえました。
私には返す言葉も払う金利もございません。
それにしても和田さんはお幾つになられたのでしょう。
相変わらず仕事にブレは微塵も感じられません。
フィッツジェラルドの文体はやはり心地よい。ストーリーがどうのという以前のお話である。
英語もよう分からん奴が翻訳で読んでなに寝ぼけたこと言うとんねん という声も聞こえるが
でもそうなんだから仕方がない。
村上春樹の翻訳作業は今まさに円熟期に入ったという感さえ抱かせる達者ぶりを見せつける。
お陰で僕はこの正月冬篭りのなか、名実共に「冬の夢」にドップリと浸りまくったのである。
文学も音楽もそのクオリティーさえ高ければ、
作家も音楽家も人間性はどうでもいいというのが金森幸介の考えである。
どんな極悪非道な人間であっても、紡ぎだすものがハイレベルならば優れた表現者である。
確かに私もジミ・ヘンドリックスやブライアン・ウィルソン、ジョン・レノンらの
音楽は好きだけれど、彼らと友だちになりたいとは決して思わない。
だっていろいろ鬱陶しいに違いない。
同じくスコット・フィッツジェラルドの文体にはいつもホレボレさせられてしまうけれど、
お前は藤山寛美か!と言いたいほど無限大に近い浪費癖と、
小原庄助さんか!と疑うほどのアル中スコットと付き合うのは相当の覚悟を要するだろう。
そこへいくと村上春樹氏は、ぜひお近づきになりたいと思わせる良識人である。そんな気がする。
氏は「フィッツジェラルドと私の共通点は、財テクとか資産運用の才能がないことだ」と
どこかで語っていたが、私も同じ共通点を有している。やはりお友だちになれそうである。
資産運用の才能などなくとも、うなるほどの印税が入るであろう春樹氏である。
お友だちになって運用する資産を貸してもらいたい私である。
金森幸介の音楽はすべてフィクションである。と本人は断言している。
そう、この世に遍く音楽も文学もすべてある意味でフィクションである。作り物である。
でも、表現者の人となりが音楽や文学にまったく反映されないかといえばそうでもない。
フィッツジェラルドの小説に登場する主人公はほぼスコット・フィッツジェラルド自身の分身だし
絡み合うすべての美しい女性には明らかにジャズエイジ最後のフラッパー、ゼルダの影が宿っている。
夫婦ともに奔放な暮らし向きによる浪費癖によって、彼は生涯多額の金を必要としたが
自分が書きたい小説しか書かなかった。
世界恐慌、妻ゼルダの病などによって酒びたりとなり、失意と困窮の中で亡くなった
まさしく放蕩と転落の天才作家スコット・フィッツジェラルド。社会的には生活破綻者である。
かたや文学賞の受賞スピーチでさえ衆目の的となる発言者として認知されるまでになった村上春樹。
一見まったく異なる人となりの如く見えるふたりだが、少なくとも村上氏はスコットに並々ならぬ
シンパシーを抱いているように見える。
もしも村上春樹が人生のどこかで彼にとってのゼルダに出逢っていたなら・・・
ひとりの男として、どちらの人生がより幸せか、無難な人生を生きる私には判断できない。
「男と女が漂いながら 堕ちていくのも しあわせだよと...」とジュリーも歌っていた。
音楽も文学もその優劣と表現者の人となりは無関係である。
しかし紡ぎだされた虚構世界の中のどこかに、ふと表現者の体温が浮かび上がることがある。
私は金森幸介という人となりをいくらか知って、彼の音楽がより好きになった。
彼が歌う嘘っぱちの言霊のその中に、寡黙な痛みと和らぎとを手探り当てるという
ハードボイルドな作業が好きになった。
次回で遂に100話を迎えるこのinside-reportも「ようもまあ、そないに嘘八百を」といわれるが、
嘘っぱちの中にも一縷の真実は存在する。そしてそれがすべてを物語ることもあるのである。
たとえ金森幸介とはまったく関係がないと思われるエピソードであっても、
仄暗い水路は必ず金森幸介の深遠なる地底湖に繋がっていることを信じていただきたい。
そしてそこに私lefty-hiroの爲人-人となり-並びに体温、加齢臭といったものを
少しでも感じ、嗅ぎ取っていただければ、是に勝る歓びはない。
例のエルサレム賞授賞式で村上春樹はこんなスピーチを英語で残しています。
金森幸介の嘘っぱち音楽づくりにも通じるような感もあり、ここに記します。
私は作家としてイスラエルへやってきました。つまり、嘘の紡ぎ手としてです。
作家以外にも嘘をつく人種はいます...政治家...おっと失礼、大統領閣下
や外交官も嘘をつきます。しかし、作家には他の人々とは違う点があります。
作家は嘘をついたかどで訴えられることはなく、むしろ賞賛されるのです。
しかも、嘘が大きければ大きいほど賞賛も大きくなるのです。
我々の嘘が他の人の嘘と異なるのは、我々の嘘が真実を導き出す助けになることです。
真実全体を把握することは容易ではありませんから、
我々はそれを一度、フィクションの領域に翻訳するのです。
しかしそのためにはまず、我々自身の中の真実がどこにあるのかを把握しておかねばなりません。
本日、私は真実を話そうと思います。私が嘘紡ぎにいそしまない日は年に数日しかないのですが、
今日はそのうちの一日ということです。
<中略>
我々は、誰もが高い壁に立ち向かっています。
高い壁とは、普通なら一人の人間としてやるべきではない
と思うようなことまでやらせようとするシステムのことです。
私が小説を書く目的は一つしかありません。
それは、個人の中の無二の神性を描き出すことです。
唯一無二であることを祝うためです。システムが我々を紛糾させるのを防ぐためです。
だから、私は生きること、愛することの物語を書くのです。
人々を笑ったり泣いたりさせるように。